2008年10月10日金曜日

高度経済社会の中の自由


「考えるな」
 実は今日、現職のプロデューサーさんにそういわれた。今日はプロデューサーのアシスタントとしてのインターンの面接だったのだ。「じゃあ仕事してみる?」といわれたのだけれども、話の流れで、「考えるな」といわれてしまった。細胞として、働ける?と。僕のくそ生意気な価値観から言えば、「考える」ことを放棄するということは、人間であることを放棄することとほぼ同義なので、それを受け入れるわけにはいかない。でもそうしたら、このチャンスを逃してしまう。迷った結果、「それは無理」だと判断してしまった。それ以上に、プロデューサーの口からそんな言葉が出てくるとは思いもせずに、思考が止まり、頭が真っ白になって、ひるんでしまったという理由も大きいけれども。結局無様な言い訳にしかすぎない。こんなことで怯むように隙がある人間に、人をまとめることは不可能だろう。うん。同感。それに「考えるな」という言葉はもちろん、会社の組織の一部になるのならば、当たり前のことなのかもしれない。下の方がぐだぐだ考えて、足を引っ張っていたら、業績に響くものね。よくわかる。そんな細胞や歯車は邪魔だ。あくまでもこの社会の中では、人は結局のところ、労働力に換算されてしまうのだとしたら、残念なことに、そういう観点から見ると、僕は自己評価以上に、現在の社会に不適合な人になる。たぶん、この予想以上にダメだな。やりたいこと、やろうとしていること、その結果としてこうしたいというヴィジョンが中途半端に頭の中に存在し、そしてそれを大事にしようとしている時点で、それを簡単に捨てたり、無視することができなくなっている。もちろん、仕事だ!って割り切ればいいのかもしれないけど、僕は根本的にはバカ単純な人間なので、それができない。だって、そんなん自分じゃないもの。でもそれができないと、高度経済社会で生きられないのかもしれない。でもそこまでして、自分を曲げることに耐えられるだろうか。でもそうじゃないと生活できない。でも。でも。でも。あれ、堂々巡りだ。常識と自分のルールとの矛盾。こんなこと考えたこともなかったなぁ。いや、わかってて、無視し続けたんだろう。単純なことだし。

 というわけで、とても僕は今迷ってしまっています。いや、ウソ。迷ってなんかはいないんですよね。わかってたことだし。ただちょっと判断を下すことに怯んでいるだけ。そしてここまで怯んでしまっている自分に動揺してるだけ。判断材料が足りないのかもしれない。才能だとか、現実の直視だとか、コネクションだとかいろいろ。そもそも才能なんてあるのか。いや、ない!と断言してしまいたい。というより、そんなもの自分じゃ判断できないし、そもそも判断したくもない。だってできるなら避けたいもの。なんでこんなにバカで臆病なんだろう。余計な回り道しすぎだ。たぶん。今下すべき判断は、①夢についてどうするか。②その上で、現実的にどう活動していくか。単純な問題。そしてその判断のために、いくら怖くても、もっと自分と真剣に向き合っていかないといけない。うん。単純、単純。

 なんでこんなことで、ぐだぐだ悩んでしまうんだろう。まぁいいや。必要なプロセスとして。

 数日間だけ悩む。そしたらやめる。動く。宣言。誰よりも信じることができない、自分を信じきれるかどうかがきっとキーポイントになる、、、と思う。うん。

 正直なとこ、冒頭のセリフのあと、何も言い返せなくなってしまった自分が、自殺したいほど無様に感じられて(実際そうなのだけれども)で、そのあととても腸が煮えくり返って、悔しくなった。要するにまだまだ子供ってこと。残念なことに。本格的に悔しい。
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バトン


 なんとなく、人生ってバトンリレーに似てる気がする。こう、決定的な瞬間みたいな、主人公のバトンのリレーみたいな。なんとなく、感覚として。バトンをまわして欲しいなら、ステップを踏むしかない。みんなが感心するように、ステップを踏み続けて、踊るしかないのかもしれない。
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政教分離

民主党菅氏、政教分離で集中審議要求

 民主党の菅直人代表代行は9日の記者会見で、憲法が規定する政教分離の考え方について「大いに議論すればいい。集中審議も一つの考え方ではないか」と述 べ、国会で論議を深めるべきだとの認識を示した。創価学会を支持母体とする公明党を揺さぶる狙いがあるとみられる。(09日 22:01)

ニュース元

 とてもいいことだと思う。何の宗教〈宗教といえるかどうかは別にして〉を信じようと個人の勝手だけれども、特定の宗教が特定の政党を作るのは、どうなのよと思うわけです。いや、公明党よくやってるとこはよくやってるけれども。一方的にダメといってしまうことは、簡単だけれども、大事なのは、一度、当たり前だと思えるようなところから考え直すこと。自分の頭で。思考が盲目になっていると、きっとあとで後悔する事になると思う。そもそも気がつかないで、後悔しないのかもしれないけれども。

 つまり何がいいたいのかといえば、考えるという義務を怠ってるやつに、何かを批判する権利はないっていうこと。他人のことを好き勝手言えなくなってしまったら、そんなのは自由な社会じゃないけれども、少なくとも一度“自分の頭”で考えて、意見を持った上で、批判するなら批判して欲しい。メディアに流されてる人が、どこかのコメンテーターの意見を、さも正解のように偉そうにしゃべっているのを見ると反吐が出る。正解なんてどこにもないし、そもそもそんなことやっているなんて、パペットに成り下がってしまっているだけなのに。僕は誰かに自分の頭を操られたくない。