2008年12月31日水曜日

もの


生きるうえで必要なものって、実は本当に少ない。
情報も物もあふれすぎていると実感している。
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2008年12月27日土曜日

記憶の品物


こういうの見ていると旅に出たくなる今日この頃
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クッキーマン


最初に作ったクリスマスカードのプロトタイプ
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2008年12月25日木曜日

じゃっくにこるそん


僕はジョーカーというキャラが好きなわけだけど、ジャック・ニコルソンの演じるジョーカーと、ヒース・レジャーの演じるジョーカーは同じキャラクターであっても性格がまったく違うと考えている。例えるならジャック・ニコルソンのジョーカーは野心家で、従来の典型的ヴィラン(悪役)って感じなんだけど、ヒース・レジャーの演じるジョーカーは、ひねくれもので、さびしがり屋のヴィラン。ついでに躁鬱気味。ダークナイトでは、とてもそう感じるシーンが多かった。どちらにせよ、僕はこの狂った道化師がとても気に入っている。
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カメラ


写真を撮るのもスキだけど、最近オフの日が多い。クリスマスは意外と楽しかったのかもしれない。
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2008年12月24日水曜日

Why so serious ?


Why So SERIOUS ??
I don't Know...

Merry Xmas
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2008年12月22日月曜日

蝋燭


最近、とても調子が良い。なぜだかはわからないけれども、具体的な目標が見つかったのがよかったのかもしれない。足がかりがようやく見えてきたってこと。懐かしい人との再会もあり、忘れてたことを少しずつ思い出すことも増えてきた。ぼやけたイメージとして。まだ全体像は見えない。たぶん、大事なピースがかけてるんだろう。でもまぁ、忘れたことで元気になれるならそれはそれでいいと思った。何かとメモをしておいたことが徐々に役にたっている。年賀状は出せないだろうけど、お世話になったと記録している人にオリジナルのクリスマスカードくらいは出そうと思う。
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飛翔



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2008年12月17日水曜日

電話ボックス


携帯電話が普及するようになって、徐々に姿を消していった電話ボックス。たまに街中で見かけると、懐かしい気持ちになると同時にタイムスリップしたような感覚に陥る
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マルチメディア館


僕の状態は医者に言わせると、無意識のうちに思い出そうとすることを避けている、という状態らしい。ほかにもあるけど、大きな要因として。高校時代とか中学時代のことが影響しているのは火を見るより明らかで、その理由もわかっている。でもまぁ、思い出したくないことはいつか思い出したくなる日が来るまで放っておくことにしておこう。たぶん、そのうち笑顔で思い出せる日がくるはずだ。そうでしょ?
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電車の中


お疲れですね。わかります。

電車の中にはいろんな人がいるけれども、結局のところ、大きく分類すると次のような行動をする人が大半だ。①本を読む ②寝る ③音楽を聴く ④ケータイをいじる

基本的に僕は人を観察しているのだけれども、なんだか電車の中は高度経済社会に動かされている(利用されている)人たちがすごく多いと思う。なんていうか、パペットになっているんじゃないだろうか。そういう僕も操られているのを実感している。面倒だな。
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2008年12月15日月曜日

Lift


存在するだけで、誰かを傷つけることもある。

この事実は、村上春樹の作品だけじゃなくて、数多くの作家がそれぞれの表現で描いている事実だ。今まで信じてこなかったことだけど、今日そのことを痛感している。人は存在するだけで誰かを傷つけてしまうようだ。とはいっても、それは生まれつきのものじゃなくて、それまでの結果の積分でしかないのだけれども。つまり、僕はある特定の誰かにとって、ただの障害物ではなく、傷つける凶器になっているということ。僕の価値はプラスでも0でもなく、マイナスなのかもしれない。

村上春樹の「国境の南、太陽の西」という小説に次のような一説がある。あまりにも僕が言いたかったことを簡潔に述べているので、抜粋したい。

その経験から僕が学んだのは、たったひとつの事実でしかありえなかった。それは、僕という人間が究極的には悪をなし得る人間だったという事実だった。僕は誰かに対して悪をなそうと考えたようなことは一度もなかった。でも動機や思いがどうであれ、僕は必要に応じて身勝手になり、残酷になることができた。僕は本当に大事にしなくてはいけないはずの相手さえも、もっともらしい理由をつけて、とりかえしがつかないくらい決定的に傷つけてしまうことができる人間だった。-講談社文庫 村上春樹著「国境の南、太陽の西」-

最後には相手を傷つけてしまうのなら、最初からひとりでいる方がいいのかもしれない。ひとりで生きることはできない。でもだからといって、簡単に相手のエリアに飛び込み、そして自分のエリアを解放しておくのはとても危険だ。僕は弱いけど、できる限り、ひとりでいれるようにこれから慣れていく必要があるかもしれない。

「Lift」
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2008年12月10日水曜日

大人はわかってくれない


「大人はわかってくれない」という作品がとてもおもしろい。というより美しい。人がやっぱり好きで、もっと人を知りたいと思う。でも自分は嫌いだ。
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るらるら


先が見えなくてやけにもやってたけど、先生と話して、先が見えてきた。まずは大学院にいく必要が出てきた。
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2008年12月9日火曜日

ブルドッグ


「ちょっとなんなの、あなた。カメラなんて向けて!」
「いや素敵なカップルだなと思いまして」
「なら好きなだけ撮りなさい」

おもしろい人だ。
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隣にいたはずの僕

考えてみれば、記憶って変なものだ。エピソードは覚えてなくても、知識はあるし、読んだ本の内容も、お気に入りの映画の内容も(せりふまで!)よく覚えている。でも僕自身のエピソードはある時期、というより僕のしょっぱい青春時代のほとんどなんだけど、が思い出せない。うすっぺらな小説のようで、もっとたとえるなら喫茶店で隣に座っていたはずの友人がコーヒーの残り香だけ残してどこかにいってしまったような喪失感。ちょっと悲しい。でもいつまでも悲観していられないので、早速行動。前向きに前向きに。でもいったいどこに隠れちゃったんだい?
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2008年12月8日月曜日

自己同一性


特に思い出せなくなったからといって、アイデンティティーがなくなるというわけでもないらしい。興味深い。僕がおもいだせなくなった、つまり想起できなくなったのは、エピソード記憶というものらしい。だから別にドアだとかパソコンの使い方なんて忘れてないわけだ。中学高校時代、そして浪人自体と今年の前半の記憶があやふやというかぽっかり抜けてしまっているだけということになる。これがどういうことを意味しているのかはよく知らないんだけど、ま、思い出したくないということなら無理に検索する必要もないだろう、と無理やり自分を納得させることにする。いろいろなくしても僕は僕なんだから仕方ない。大事なのは過去じゃなくていまと、これからだもんね。
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悲しみの喪失


うつ病の症状の中に健忘というのが存在するのだが、どうやらそれが発現したらしい。部分健忘。つまり、記憶の一部分が消えてしまった、というよりは思い出せなくなったということだ。日誌によると二、三日前くらいにやらかしたあることが原因だと推測できるが、正直それもよくわからない。だって覚えていないのだもの。すべてを忘れたわけじゃなく、一部分のことが思い出せないだけ。具体的にいえば、中学生、高校生のころと、去年の浪人生活の1年間。ついでに今年の出来事もちらほらと。人は認識できたけど、思い出せない人も当然いるし、エピソードとかはまったくっていってもいいくらいに思い出せない。もしかしたらきっかけがあれば復旧できるのかもしれないけれども今は無理だと思う。映画や漫画のように「ここはどこ?僕はだれ?」なんてことにならなくて済んだけれども、やっぱり最初はきつかったです。真っ白だったし。記憶のブラックボックス化、何があったんだろ、思い出せないところに。 さよなら、また会う日まで。

ということで、話が通じないこともあるかもしれませんが、どうにかこうにか僕は生きています。学校の休学はたぶんしませんが、成人式およびその後の同窓会には出席しないと思います。何も思い出せなくて切なくなるだけだろうしね。以上報告終わり。悲しみの喪失
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2008年12月6日土曜日

しかめっつら


まだまだ僕は子供だ。ほんとにこんなんで、大人になれるのだろうか。いや無理だな。最近、とても欝で気分がふさぎこんでいる。写真はよくほめてもらえるし、地元のカメラ屋で行っているフォトブックってサービスのサンプルとして僕が作ったアルバムをおいてもらえたりと割とがんばっているのだけれども。でもだめ。とてもとてもふさぎこんでいる。

たぶん今一番必要なのは、夢でも希望でもそんなんじゃなくて、僕を必要としてくれる具体的な誰かなんだろうな、なんてバカみたいにつぶやいてみた。アイリッシュコーヒーがおいしくて、その温かさが染みてくる。
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不貞寝サイクル


波が来ると、僕はもぐることにしている。心の底まで潜って、そこにある岩につかまって、波が去るのをただひたすらじっと待つ。何も感じないように、これ以上攻撃されないように。周りをシャットアウトして、僕は自分の世界に逃げこむ。昔からよくやっている身の守り方。逃げているのかもしれない。でもいやなものに向き合うのは、創作活動をしているときだけで十分だ。波が去ると、浮き上がって、ほっと一息をつく。少ししか見れない青空を目に焼き付ける。
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2008年12月3日水曜日

釣り


たった1分でも、永遠に待っているような気がしなくもないくらい、人間にとってそのまま待つということはとても難しい。でもだからといって、中途半端に待って動くと失敗することが多いように感じる。つまり、待たなきゃいけないときは、いくらつらくてもきちんと待たないといけないのだ。とても難しいことなのだけれども。
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Tokyo Picasso


  
 先日、現在、東京で行われている朝日新聞社の企画「Tokyo Picasso」を見に行ってきました。もちろん、国立新美術館とサントリー美術館のどちらにも行きました。二つの美術館近いですしね。
 今回、ピカソの作品が空前の規模で一気に来日!と聞いていたので、前々からとても楽しみにしていたのですが、すばらしかったです。どちらも見ごたえがあったのですが、個人的にはサントリー美術館の「巨匠ピカソ 魂のポートレート」の方が気に入りました。特に晩年の「若い芸術家」という作品(上の画像dです)が、なんとも言えない深みを持っていて、どこかほほえましい、やわらなかな雰囲気の中にどこか切ない空気が混ざっていて、とても僕の好みでした。 ピカソといえば、キュビズムの影響から絵の印象がとても強い芸術家ですが、実は、彼は自分自身を彫刻家とも称するように、彫刻作品も数多く残しています。ブロンズなどが中心ですが。その彫刻作品も今回、数多く展示されているので、今まで知らなかったピカソの一面を見ることができると思います。彫刻でとてもおもしろかったのが、キュビズムで書いた絵画の横に、同じモチーフの彫刻が展示してあったとこでした。これは国立新美術館のほうでしたが。キュビズムのもつ3D性をより具体的に知ることができるので、いい勉強になると思います。
 ピカソはあらゆる意味で、現代美術の基礎を作ったといっても過言じゃありません。ちょっととっつきにくいというか、どこかめちゃくちゃな感じがする現代美術ですが、その根底には巨大な感情に、メッセージ性、それを表現する際に裏付ける論理性があるのはいうまでもありませんよね。その理解を助けるのに、そのルーツとなったピカソを理解するのは大きな助けになると僕は思っています。ポートレートを時代順に見て、考え方などの変化をたどりつつ、それとリンクしている作品を見ていくと、どのようにして、現代美術が今のような形になったのか、少しつかめます。どんな作品でもそうですが、実物を見るのと、本を眺めるのではまったく違います。貴重なチャンスです。実物を見て、感じてください。とても楽しく、皆様の知的好奇心などを刺激してくれると思います。

国立新美術館 「愛と創造の軌跡」
生涯を通じて変貌を重ね続けたピカソの全体像に迫ります。初期の青の時代からバラ色の時代、そしてキュビスムの英雄時代を経て、新古典主義時代、さらにはシュルレアリスムと変化していく作風。パピエ・コレ、レリーフ絵画、構成的な彫刻やアサンブラージュなど、さまざまな素材と表現の可能性の追求。激動の時代であった20世紀を生きた芸術家らしく、戦争や平和をめぐって、人間性や芸術の意味を求めて、ピカソの芸術は多様な展開を見せます。それとともに忘れることができないのは、画家の生涯を彩り、その芸術に霊感を与えた、愛する女性たちの存在でした。生きること、愛することと芸術の創造とが分かちがたく結びついた、巨匠ピカソの91年の生涯を、約170の作品によってたどる大回顧展です。

サントリー美術館「巨匠ピカソ 魂のポートレート」
ピカソは生涯を通じて内なる心に向き合い、常に自らの人生を創作に反映させた画家でした。数多くの自画像、あるいは間接的に自己を投影した作品の数々は、ピカソ芸術の本質を表しています。本展は、ピカソ自身の魂の叫びとも言うべき自画像とその周辺の作品を、油彩画を中心とした約60点により紹介していきます。 初期の死の影を色濃くにじませた、若きピカソの憂愁と悲しみに満ちた「青の時代」から、ピカソの人間表現の成熟期でもあったキュビスム、新古典主義時代、シュルレアリスム、そして荒々しい暴力性に彩られた戦争の時代を経て、誰の想像をも超えたスケールとスピードで展開した晩年の自由な様式へといたるピカソの変化をたどります。

 自画像を中心とした作品群の表層に浮き上がってくる「自我」に注目し、どんな様式で描こうとも常に自己と対峙し、自らの存在を問い続けたピカソの内面に迫ります。