2008年8月26日火曜日

つまるところ。


この挿話が頭から離れない。

農夫は道で年老いた悪魔に出会った

フィンランドの田舎道の石の上に年老いた悪魔が腰を下ろしていた。悪魔は一万歳だか二万歳だかで、見るからに疲れきっていて、服も靴もほこりだらけだった。髭さえもすりきれていた。「そんなに急いで、お前どこにいくんだ?」と悪魔は農夫に声をかけた。「鍬の刃がかけたんでなおしにいくんだ」と農夫は答えた。「急ぐことはないさ」と悪魔は言った。「まだ日はじゅうぶん高いし、そんなにあくせくすることないじゃないか。ちょっとそこに座って、俺の話を聞いてくれよ」農夫は用心深く悪魔の顔を見た。悪魔なんかとかかわりあうとロクなことがないということは農夫にもよくわかっていたが、悪魔はひどく見すぼらしくて疲れ果てているように見えた。そこで農夫は、

この挿話が出てくる小説を読んでいる。この小説が好きだ。


世界は何かが起きたところで、いつも何も変わらずに回っている。いつその大前提が崩れるのかは、僕には知ったことではないが、いつかはきっと終わるのだろう。形があるもので、崩れないものはないのである。言い換えれば、形がないのに存在しているものには崩れないものも存在するのだ。そのレベルにまで到達することはとても難しいが、そのレベルに到達し、強固なものになればきっと、それはいつまでたっても崩れることはないのだと信じたい。

何かを信じることがたとえ身体的な自由がなくなったとしても、自由なのだから。僕の精神は僕だけのものであり、ほかの誰かの侵入や介入は許さない。参考にすることはあっても、僕の積極的な意思がなければ取り入れることはしない。そんな考えを持っているから、印象操作などにとても気分が悪くなる。何かとの出会いはたいていの場合素敵なもので、そこから何かの意味を見出したり、何かを学ぶことがいつのときも大事になると考える。別にそんなことを考えずに無視しようと、ないがしろにしようとそれは本人の自由なんだけれども、たぶんそうやって見つけたものは、あとあととても大事になってくるんじゃないかと思うのだ。聖書か何かの寓話の、石ころ集めの話に似ているのは、昔からそういう寓話をよく聞かされていたからであるが、まぁそれはどうでもいい。つまるところ、僕は寓話における寓意を見つけたり、現実世界の何かに勝手に意味を見出すのが好きなだけだ。直感的に感じたり、あとで理性的に見つけることがあるこれらのものは、たいていの場合、役に立っている。表に出なくとも。だからこそ、何か困ったりするときはその意味をヒントにしていることがとても多い。まぁヒントにしたところで、実際に行動したり、思考したりする僕自身がダメならば宝の持ち腐れになってしまうのだけれども。


世界が気持ち悪いという内容の発言を一年前からよくしているが、その意見はいつになってもかわらない。だんだんと僕の世界はしぼんできているように感じる。それは、単純に僕が関わろうとする世界を無理やり狭めているだけなのだけなのだが。つまり、僕が関わる世界をできるだけ小さくしようと奮闘してしまっている。顔見知りや、知り合いの数がいくら多かったとしても、友人と胸を張っていえる人を増やしていきたい。誰かに会うということは、嫌いではなく、むしろ好きなのだけれども、トラウマになってしまった一件以来、誰かに頼ること、誰かに内面を出すのが今まで以上に怖くなっている。結局のところ、わかったつもりでいてもわからないことはたくさんあるし、相手が求めている自分像(相手にとっての自分という役割)を鞍替えしようとすると、トラブルが起きてしまうということである。トラブルになってしまうと、お互いに大人になれればよいのだけれども、どちらかが、またはどちらも子供で意地をはってしまうと、トラブルを解決することはいつになってもできない。トラブルには解決できるタイミングというものがあって、それを逃してしまうと解決するために必要なエネルギーが急激に増えるのである。僕の抱えている対人関係のトラブルにもそれは当てはまり、意地をはってしまっているのと、そのタイミングを逃してしまったことで、どうしようも解決する方法が見つからず、ストレスになってしまっている。結局僕は臆病者でしかなく、極端にトラブルやら争いを避けようとする傾向にあるし、トラブルや争いに関わってしまうと、それが解決するか、忘れてしまうまで、いつまでもストレス要因として苦しんでしまう。気にしなくなればいいのだろうけど、幸か不幸か、いつまでもうじうじと気にしてしまう。こういう点が、弱いとか女々しいとか評価される一因になってしまうのだろう。ふむ。


取りとめのないイメージが頭を自由に闊歩している。それは映像であったり、文章の一説だったり、音の羅列だったり。その世界にひたっているのもとても面白い。それらをとめようとするには、何かの世界に没頭して、それを頭の中に詰め込むしかないので、最近、イメージに浸っているか、何かを吸収しているか、そのどちらかをたいていやっている。つまり、何が言いたいのかといえば、ヒキコモリになっているということだ。

こんな取りとめのない文章を書くために10分くらいを使っているのは無駄なのだろうか。わからない。

作家はとても幸せで、と同時にとても不幸な職業であると思う。

考えないことと、考えることのどちらが幸せなのだろうか。

潜水服は蝶の夢を見るが、蝶は潜水服の夢を見る。

同様にコインの表は裏を夢見て、裏は表を夢見る。 つまりはそういうことだ。
Posted by Picasa