2008年10月18日土曜日

波紋


 すっかりいろんなところで、波紋が広がっている気がする。自由は責任が伴うということをわかっていない人が多すぎるんじゃないのか。だから権利と権力の暴走が起こっているんだ。たぶん。正直、今の世界になんら希望も見出せない。まぁだからといって、自由ということを受け入れるならば、そういう浅はかな考えも容認せざるおえないんだけれども。

 やりたい人がやりたいときに、やりたいことをするってことは、当たり前のようでいて、とても難しいんだけれども、たぶん、それができるようになれば、嫌な社会でも楽しめる気がする。

 そんなことを、渋谷のTSUTAYA内にある、スターバックスでスクランブル交差点を見下ろしながらふと思ってみた。

 政治に関心を持たないということは、自分に関心を持たないということとほぼ同義だ。だって、政治は結局のところ、自分を縛るルールを作るところで、そしてそのルールがつむぎだす舞台の上で、僕らは踊らないといけないのだから。つまりそのルールに関心を持たないということは、自分が踊る舞台に関心を持たないということで、さらにいえば、自分自身可能な行動範囲(できることと、できないことを区別すること)に感心を持たないということにつながると僕は思うのだ。そして実はそれはとても危険なことで、ふと気を許すと市場と、権力がすべてを管理する世界に放り投げられるかもしれない。そこでは思想の自由もなくなっているかもしれないし、そもそもひとつの顔を持った大勢の人ということになるのかもしれない。そっちの方が管理も、効率もいいだろうから。自分自身がどう踊るか、ということを、自分自身で考えることがまず何よりも大切で、そこからどうあがいても、政治という変な機構への興味だとか危機感が生まれる。そういうことから考えると、政治に興味を持たないということは、自分自身で自分のことを考えるということを放棄しているということであり(僕にとって、それは人間であることを放棄するのと同義だが)、自分自身のコントロールをすべて顔の見えない他人任せにするという危険なことだと認識している。結局、すべての事象は生きている限り、自分に帰結するものなんだよね。生きている限り、どうあがいてもそこからは逃げられない。まぁ一度は自分であがくことが必要なんだけど。
 誰を、そして何を信用するかどうかは自分で決めるべきだし、他人の意見を鵜呑みにして、決断から逃げるべきじゃない。一度は自分で噛み砕いて飲み込んだ上で吐き出すべきだ。
 だから僕は口先だけで「国民の目線で」なんていいながらも、パチンコ業界やマルチ商法や特定の宗教や特定の団体からの献金を受けて、便宜を計らっている政党と政治家をこれっぽっちも信用していない。そうやって、国民をだますのはどうなのよ。最近、政治家の大多数が狂人に見えるのは僕だけではないと信じたい。いや、別に僕だけでもいいんだけれども。
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